屋久島町教育委員会が5月末から約1カ月の予定で楠川城跡(屋久島町楠川)の発掘調査を行っている。
楠川城は戦国時代の1524(大永4)年、当時屋久島を領有していた種子島氏が築いた山城。海抜50メートルほどの丘の先端に位置し、海に面する北側と川に沿った西側は急斜面で、なだらかな南側と東側には堀が設けられていた。頂上付近の3つの曲輪(くるわ、城の平坦部)からは海峡を挟んで種子島が一望でき、狼煙(のろし)を使った種子島との連絡に都合がいい。
種子島に鉄砲が伝来した1543(天文12)年、大隅半島の禰寝(ねじめ)氏が種子島に来襲した際、種子島当主は難を避けるために楠川城に逃れた。この戦に敗れた種子島氏は禰寝氏に屋久島を譲渡し、禰寝方の守備兵150人が全島に配備されたが、翌年早々に種子島氏が楠川に上陸して島を奪還した。その後も両氏の争いは続いたが1573(天正元)年、禰寝氏が島津氏に下り、楠川城は廃城となった。浅井長政が小谷城を織田信長に攻められて自害した年だ。
2019年5月の大雨によって、北側の斜面が崖崩れを起こした。曲輪には直接の被害はなかったが、今後さらなる崖崩れの可能性が高いため、斜面をさらに削って緩やかな傾斜にした上で補強する治山工事が9月から予定されている。曲輪の一部が工事区画にかかるため、工事に先立って発掘調査をすることになった。
これまでも、工事に合わせて発掘調査が何度か行われているが、人が住んでいた形跡がある安房城跡(屋久島町安房)と異なり、陶磁器類はあまり出土していない。安房城跡一帯は7300年前に噴出したアカホヤ火山灰で覆われていたので、アカホヤ層に出会うまで50センチほど掘り進めば発掘調査には十分だったが、楠川城跡はもっと古く、63万年前に噴出した小瀬田火砕流が堆積しており、どこまで掘り進むかの判断が難しいという。今回の調査では、陶磁器など遺物の発見より、石垣跡など遺構の調査成果が期待されている。
楠川城跡に至る通常の登山道は現在足場が悪い。教育委員会では、発掘調査後に安全に配慮して現地説明会を開く予定。