「戦没者追弔法要」が4月18日、真宗大谷派の願船寺(屋久島町一湊)で行われた。
1945(昭和20)年4月の一湊大空襲から79年がたち、仏教で80回忌に当たる日に合わせて企画した。遺族をはじめ、区民50人ほどが参列した。
本堂では、空襲で犠牲となった13人に加え、寺の過去帳に残る太平洋戦争の戦死者95人の氏名と享年、死没地を張り出し、米軍の資料から引用した当時の航空写真をパネルに引き伸ばして展示した。
「亡くなった先達と、戦争の悲惨さを胸に刻み、日本が再び戦争へとかじを切らないよう、改めて世界平和を祈りたい」と話す同寺の僧侶・佐藤明了さんが昨年から、門徒と共に準備を始めたところ、出郷者の眞邉一近さんが一湊の空襲を調べているという情報が寄せられ、米軍関連の資料を借りることになった。
参列者で最高齢の安藤ツタエさんは「体の弱い近所の若者が逃げ遅れて亡くなった。自分は川に飛び込み逃れた」と涙ぐみながら当時を振り返る。「空襲がいよいよ激しくなってから歩いて疎開した島の西部にある永田集落では、軍艦からの艦砲射撃で被害に遭った」とも。
眞邉さんが提供した記録によると、一湊集落は10回の空襲を受けているが、日本側の日付は記録によってまちまち。一湊大空襲については、鹿児島県の記録では4月15日に、合併前の上屋久町郷土史の記録では4月18日に、それぞれなっている。寺では当時を知る人への聞き取りなどから総合的に判断し、4月18日に法要を行った。
佐藤さんは「遺族も高齢化し、連絡が取れたのは2割程度。今後も当時の証言を集めながら、毎年同じ日に法要を重ねていきたい」と話す。