屋久島町教育委員会が1月末から1カ月間、安房城跡(屋久島町安房)の発掘調査を行った。
安房城跡は、安房川と滝之川が合流する丘陵にある。北、東、南の三方を崖と川に囲まれ、唯一開けた西側には、地面を1メートルほど掘り込んだ空堀と土を2メートルほど盛り上げた土塁が今も残っており、防衛機能を備えた山城の遺跡と考えられている。安房川に突き出た北側の崖の上には、20メートル以上も下の安房川から水をくみ上げるために、てこの原理を応用した「はねつるべ」があったという。
屋久島の他の山城の多くと同様に、安房城も平家落人の居城と伝えられる。戦国動乱期の1543(天文12)年には、大隅半島の禰寝(ねじめ)氏が種子島氏との戦いに勝って屋久島を領地にした際、1年近く禰寝方が駐留したことが知られており、禰寝氏が築城した可能性がある。倭寇(わこう)の寄港地あるいはとりでだったとの説もある。
今回の発掘調査は安房城跡の一部を開発する計画があり、開発予定区域に埋蔵されている遺物や遺構の有無を記録するのが目的。本年度は開発予定区域周辺の一部を調査し、区域全体の調査は来年度以降に行う。
安房城跡一帯は7300年前の鬼界カルデラの大噴火で噴出したアカホヤ火山灰に覆われている。アカホヤ層は1メートル以上の厚みがあり、その下に遺物があっても開発の影響は受けそうにないので、アカホヤ層に出合うまでの地表から50センチほどを発掘した。
今回の調査では、宋時代の中国で作成された白磁の器、徳之島のカムィヤキの容器、長崎の滑石(滑らかな石)で作られた火にかけられる石鍋などの破片が発掘された。これらの遺物は屋久島が宋や琉球との交易の中継地だったことを示している。楠川城跡(屋久島町楠川)などと比べると遺物がはるかに多く、安房城跡が山城であっただけでなく、ここで人が生活していたことがうかがえる。