戦時中に屋久島に疎開していた3人のきょうだいが10月23日、母校の永田小学校(屋久島町永田)で住民らに向けて戦争体験やギター演奏を披露した。
帰郷したのは計屋(はかりや)道夫さん、綿谷頼子さん、計屋紘信さんの3きょうだい。終戦1年前の1944(昭和19)年8月、母に連れられて父の郷里である屋久島に東京から疎開してきた。最年長の道夫さんが当時7歳、最年少の紘信さんは生まれたばかりだった。翌年3月、東京に残っていた父が長崎へ転勤したのを機に一家は長崎へ移り、8月9日の原爆投下に遭遇した。戦後は一家で屋久島に移住し、永田小学校・中学校で学んだ。
道夫さんは長崎の高校教諭を定年退職後、自らの経験を踏まえ、妻の美穗子さんと共に国内外で戦争や原爆の悲惨さを伝える活動をしている。一家は爆心地から3.8キロ離れた高台の自宅で被爆。家は半壊したが、中学生の兄がガラス片でけがをした以外、家族は無事だった。道夫さんは疎開中に、屋久島の上空をたくさんの米軍爆撃機が旋回していたのを覚えているという。南方の基地を飛び立った爆撃機が、本土に向かう編隊を組むために集結していたと考えられる。
当時3歳だった頼子さんは、おぼろげな記憶の中で、東京から永田に到着した時に見た素晴らしい大自然の山、海、砂浜が生涯忘れられないという。食料が乏しい中、親戚の家で芋あめを煮ているのを見て、「芋あめをくれなければ鍋に砂を入れるぞ」と大人たちを困らせた話も紹介。「戦後、屋久島に戻った時には、爆弾で開いたという校庭の大きな穴がとても怖かったが、永田岳に登るなど楽しい思い出がいっぱい」と振り返る。
最後に登壇した計屋紘信さんは、クラシックギター歴50年の現役医師。ギターで会場を和ませた。加山雄三の「君といつまでも」の弾き語りでは、セリフ部分で「幸せだなあ 永田小学校で歌えるなんて 永田はどこを歩いても山と川と砂浜と 懐かしさ以外に何もない」と語り、会場から大きな拍手が湧いた。
3人は翌日から、島内の高校と中学校で生徒たちを前に講話・演奏をする予定。